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バーチャルでリアルなエントリー

モノづくりの強さ過信を危惧す (梅田望夫)を読んだ感想。

さらに深い解説は産経新聞「正論」 「こちら側」と「あちら側」長考にゆずるとしても、何かこの梅田氏の主張には違和感があるわけで、その違和感の原因とか私の意見は「脳内」ではまとまっているのだが、こうして文章に書いて人に説明しようとするのは難しいわけで、プロって凄いなぁと思う、という前振りはこのくらいで。

「モノづくりの強さ過信を危惧す」という主題も、議論の大筋も間違ってはいないと思うが、ひとつ大きな違和感がある。キーワードは「こちら側」「あちら側」、「私たち一人一人に密着したモノの世界」「インターネット空間に浮かぶ巨大な情報発電所とも言うべきバーチャルな世界」だ。

で、常々思うのだが、「バーチャルな世界」っていうのを、梅田氏はじめほとんどの人が誤解しているように思えてならないわけだ。バーチャルとか仮想現実というと、映画マトリックスみたいな世界、あるいはヘッドギアをして大きなサングラスして擬似宇宙冒険旅行とかセックスを体験する、とかだ。「インターネット空間に浮かぶ巨大な情報発電所とも言うべきバーチャルな世界」という表現も、同じ考え方が根底にあるうように思えてならない。

違う。今、この世界が既にバーチャルな世界だ。インターネットの「あちら側」だけではない。「こちら側」も既に仮想現実社会だ。

たとえばもし今この瞬間、空から大量に紙切れが落ちてきたら。別にヘッドギアやサングラスをしていなくても、あるいはインターネットを閲覧していなくても、みんな狂喜乱舞して、それを拾い集めるはずだ。時には「これは俺が拾った」「いや俺が先だ」とか喧嘩になって、下手したら殺し合いになるかもしれない。ただの紙切れなのに。こんな世界を、バーチャルといわずして何という?

私はある会社に勤めているが、その労働の対価は単なる紙切れだ。しかもその紙切れを直接貰うわけではなく「200,000円」とか書かれた「明細書」なる、「紙切れの代替紙切れ」を渡されるだけ。こんな世界を、バーチャルといわずして何という?

その労働の対価としての紙切れは、銀行にいけばやっと手に入れることができる。んが、私はその紙切れを全て引き出すことはない。クレジットカード代とか、車の駐車場代などが、給料日の数日後には私の口座から引き落とされるからだ。
私の1ヶ月労働の対価はただの紙切れで、しかもその紙切れである姿さえ一部は見ないまま、別の人にわたり、銀行の通帳に「〇×クレジット -30,000」とか印字されるだけ。こんな世界を、バーチャルといわずして何という?

そういう風にみると、梅田氏のどこが私の違和感なのかはっきりしてくる。

インターネットとパソコン(あるいは「こちら側」のモノ)がつながって、私たちが某(なにがし)かの利便性を感ずるとき、その利便性を実現している主体が「こちら側」のモノなのか、それとも「あちら側」からインターネットを介して提供されてくる情報やサービスなのかということを、消費者の多くはあまり意識しないものだ。しかし、ここがこれからの付加価値争奪戦の戦場になるのである。

違う。梅田氏が「あちら側」と呼んだ世界が、いつまでも「あちら側」にあるわけではない。現在ではもはや「貨幣」がバーチャルなものであると気づきにくいように、「あちら側」のものはいつしかこちら側にきて、多くの人がグーグルの情報発電所を「バーチャル」だと気づかなくなる。梅田氏が心配する日本企業にとっての大変な事態は「そのとき」に起きる。

「その利便性を実現している主体が「こちら側」のモノなのか、それとも「あちら側」からインターネットを介して提供されてくる情報やサービスなのかということを、消費者の多くはあまり意識しない」というのが正確ではない。「インターネットを介して提供されてくる情報やサービス」も、そのサービスを積極的に利用するようになった時点で、もはや「こちら側」に移るのだ。

ジュースや切符の自販機、あるいは鉄道の自動改札、あるいは量販店でのクレジットカード払いが、慣れてしまうと「バーチャル」なものだと思わないのとまったく同じだ。

つまり「バーチャルが向こう」で「リアルがこっち」ではない。

うーん、駄文申し訳ない、だからどうしたというのだ。話がまとまんなかった。っていうか私にはこれ以上ムツカシイ話はよくわからん。