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人間社会の猫化、上司も部下もいない時代

家の中には父親がいて、学校や会社には先生や社長がいて、さらに国には総理大臣などという「リーダー」がいる社会、すなわち「リーダー追従型社会」が終わりつつあるのだということだろうと思う。

「各論全員否定」の社会学

もともと人間は、オオカミそしてそれを家畜化した犬がそうであるように、ある群れ(グループ)を形成し、その中にリーダーを求め、リーダーの命令に従って行動する「リーダー追従型」動物である。社会学を論ずる時、一見このことはあまりにも当たり前すぎて問題にされないが、実は私は大学時代(今から10年ほど前)から、このことを疑っている。つまり、人間は、少なくとも日本人はもう犬ではなく「猫」なのではないかと。

つまり、犬的社会では、美人コンテストで主催者=リーダーが「エントリーナンバー69番が優勝です」といえばそれを支持したし、「青い山脈」がいい曲だといわれればみんなで聴いたし、「トイレットペーパーがなくなりそうだ」といわれればみんなでそれを買う。大学紛争とか、昔の「つっぱり」が学校や社会に対して反抗したのも、それは「リーダー」に対して不満を爆発させているわけで、「リーダーを設けてそれに追従する」という社会通念はキソにあるわけだ。

しかし、今はどうだろう。たとえば「選挙の投票率が伸びない」などどいい、その原因を「無党派層の増大」などといってしまっているが、ホントにそれで解決なのか?「無党派層」という新しいグループができたというのか、そこにリーダーはいるのか?

私はそうではないと思う。日本人、特に若い人を中心に、人間の猫化が進んでいるのだ。猫は犬と違って、基本的に単独で自分勝手に行動する。猫にとってリーダーという概念はない。自分自身が部下のいないリーダーなのだ。部下も上司もいない猫にとっては、政党とか政治に関心がないという以前に、選挙、すなわちリーダーを選んでそれに追従するというシステム自体が無意味なのである。猫に投票用紙を配ったところで、猫に選挙、猫に小判で意味がないわけだ。

いま、この社会はかつてないほど多様な価値観とそれを互いに認めることで距離を開くという未曾有なバラバラ感に満ちている。下手をすると向かいのマンションに住んでいる人の顔さえ分からない。希望格差社会といわれて、その希望をもてない下のほうにいる若い人を、年寄りたちが理解できないのは、情報が切り離されているからだ。しかも、若い人が何を考え、どうしようとしているのかを年寄りたちは興味がないし、若い人同士もほかの価値観を持つ人間がいま何を考えているのか理解しようとしない。クラブに通ってる奴とオタクと海釣り好きの間に会話が成立しない。その方面の、知る人ぞ知るが細分化された市場ごとに山ほどできて、市場が小さいのだからトップに辿り着いても儲けが少なく、流行廃りが早くてトップであり続けることができない。

そういう風に考えると、上記の切込隊長の指摘は、別の解釈ができないだろうか。「下のほうにいる若い人を、年寄りたちが理解できない」のは「情報が切り離されているから」ではない。年寄りが犬で、若い人は猫なのだ。もちろん犬も猫も哺乳類には違いないから、全然会話ができない程ではないが、お互い「どうも、私は犬です」「私は猫です」と言った先からは会話は進まない。犬が「俺についてこい」といったところで猫がついてくるはずもない

「若い人同士もほかの価値観を持つ人間がいま何を考えているのか理解しようとしない。クラブに通ってる奴とオタクと海釣り好きの間に会話が成立しない。」というのも、もはやそれはいい悪いとかの次元の問題ではない。それが「猫」の生態なのだ。

「その方面の、知る人ぞ知るが細分化された市場ごとに山ほどできて、市場が小さいのだからトップに辿り着いても儲けが少なく、流行廃りが早くてトップであり続けることができない。」という言説も、指摘自体は正しいわけだが、それは人間が犬的社会を形成しているという前提で、しかも「犬のリーダー」側からみて論じられている。猫の立場でみるとどうだろう。遊んで欲しい時には飼い主に寄っていってじゃれてみるが、飽きるとすぐ別の場所に去っていく、そんなのは猫である以上「あたりまえだのクラッカー」ではないか?

であるなら、猫を相手にして商売をしようと思うなら、その覚悟は必要だろう。気まぐれな猫相手には、頑丈で大きくて数十年持つような店舗を持つことより、テント小屋にして猫が移動する度に自分もついていけるようなフットワークの軽さこそが重要だろう。一匹の猫をお得意先にしたからといって、そのお仲間や部下たちがぞろぞろとついてきてくれるなどと甘い考えは持たないことだ。そして、猫はあきるとすぐどこかに去ってしまうが、それを後ろから引き止めても無理だ。先回りして、それもできれば安いテント小屋とかプレハブでいいからいくつも店を用意して、「どれかひとつにでも入ってくれたらOK」みたいなノリでいかなければなるまい。

例によって毎日新聞を読んだと思しき中高年からキチガイのような電話がここんとこたくさんかかってくるのである。曰く、仕事のない中高年こそが希望格差社会の被害者であり、団結の必要のある状況で試行錯誤とは何事かと。

中高年で再就職先を探している人は、確かに辛いだろう。今まで犬として生きてきたのだから。だけど、もはや信頼できる上司も、ついてきてくれる部下もいない時代なのだ。そこで切込隊長に電話したところでそれはまさに「負け犬の遠吠え」にしかなるまい。「団結の必要がある」という発想自体が時代にそぐわない。猫は団結しないのだから。



コメント

なるほどにゃー

お邪魔します。

 お言葉ですが、「猫」はあくまで「己の力のみ」で生き抜く動
物です。「義務は果たさないくせに権利ばかり主張する」ような
輩を「猫」にたとえるのは「猫」に失礼ではないかと思います。

いらっしゃいませ。ブロガー(志望)様は犬型人間ですか?

そもそも「義務と権利」は、「リーダーやお上に対する義務」「リーダーやお上に求める権利」、すなわち「犬の発想」だと思われます。リーダー不在の猫には「義務」なんてありません。ので、ブロガー(志望)様のご指摘は(本物の猫と違って、己の力だけで生きていけないという意味において)間違ってはいないのですが、それはあくまで犬の視点です。猫型人間とは噛み合わない会話だと思います。

もっと手厳しい言葉でいうなら、今の大人や年配者がちゃんと人生の先輩としての「義務」を果たしてきたのなら、それを見て育った若い人は、猫になんてならなかったはずだと思います。

こんにちは。
猫型人間、犬型人間の話でいろいろ検索したところ、大変興味深かったので、当方のブログ(10月18日)にリンクさせていただきました。

ちなみにワタクシは猫型です。

karintou_1024様
リンクありがとうございます。

私も完全なネコ型でしょうなぁ。