待ち組が戦っても、得するのは勝ち組だけ
待ち組が戦っても、得するのは勝ち組だけのような気がしないでもない。
「待ち組」は、フリーターやニートなど「挑戦しないで様子をうかがう人」を意味する造語。猪口氏は1月31日の記者会見で、「『負け組』は立派だ。その人たちは戦ったのだから。本当に反省すべきは『待ち組』だ」と述べて、フリーターらの奮起を促した。小泉首相も2日の内閣メールマガジンの中で「待ち組」の存在を指摘し、「そういう人々も持てる力を存分に発揮し、創意工夫を活(い)かすことができる社会にしなくてはならない」とつづった。
戦わないくらいなら、戦って負けて経験積んだ方がマシ、という意味はわかるが、それは誰かにいわれてどうこうするもんでもないだろう。戦わず、成功もないが傷つくこともない、という生き方だって保証されるべきだし、また、戦うのか、待つのか、それを決めるのは自分自身でなくてはならない。
関ヶ原の戦いで、待ち組だった「小早川秀秋」は、家康に鉄砲撃たれて奮起を促された結果、家康は勝ち組になったが、小早川秀秋は結局その後、21歳の若さで死んだうえ、裏切り者のレッテルを貼られることとなった。小早川家も断絶している。
待っている人が、いつどのタイミングで動くのか(または、ずっと待ち続けるのか)は、自らの意志で決定しなければならないと思う。誰かに奮起を促されて動いたところで、得するのは実はその「誰か」だ、ということは往々にしてあるように思う。