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開かれた社会に閉じられたパッケージ

みちアキ氏の記事の内容とはあまり関係ないかもしれないが、「閉じる」という言葉がとても引っかかったので、それについてちょっと書いてみようと思った。多分この記事は、以下のみちアキ氏の記事に直接対応したり批評したりするものにはならない、ならないがしかし、「閉じる」というキーワードは、21世紀において極めて重要なのだと改めて思ったので。

"「世界を閉じる物語」を編む"

そして「世界を閉じる物語」においては、必ずしもこれらは悪ではない。いつまでも成長発展拡大し続けることなど絶対に不可能なのだし、どこかで流れを反転させなければいけないのだから。その過程では痛みを伴うこともあるはずだ。しかしそれは一時的なものに留まらせることは可能であると思う。個々人が、(機能不全となった旧来の)「大きな物語」を前提とした「小さな物語」を捨て、新しい、自分のための、「終わりへの物語」を編むこと。「より豊かに世界を閉じる物語」を編み始めることを、いまこそ為すべきなのだろうなと思う。(だいたい日本人は「侘び」とか「寂び」とか好きだったではないか。できるはずだ。というか宗教もないのだしやるほかないだろうよ)

本題に入る前に、ちょっと近代までの「開かれていく社会」について整理しておく。

社会のタイプとメディアのタイプの相関性を主張したのは、マクルーハンだったろうか、ちょっと忘れたが。要するに近代社会・大量生産大量消費社会では、交通網の発達等で社会が開かれていき、その開かれた社会では情報の伝達手段は「パッケージに閉じられたメディア」が多用され主流となっていくってことだ。

相対的に、蒸気船や鉄道・自動車等が発達する以前、社会は部族社会・村社会が典型的であるように「社会自体が閉じられて」いるというわけだ。社会自体が閉じられている以上、情報をパッケージとして閉じてしまう必要はない。部族社会や村社会がそうであったように、書き言葉や録音装置をわざわざ使わずとも、お互いが何度も顔を合わせ執拗にコミュニケーションを取ることで情報は「正確に」伝達されていた。

そもそも、グーデンベルク活版印刷以前、あるいはエジソン蓄音機以前では、情報をパッケージ化して閉じる行為が恐ろしく非効率である。これらの大量生産可能な発明によってはじめて、真の意味で社会が開かれていったといえる。「開いた」社会で情報を効率的に伝達させるために(そしてそれでお金を儲けるために)、複製可能なパッケージに「閉じた」メディアが利用されてきたわけだ。


【過去】閉じられた社会では、開いた系メディアが利用される
【現在】開かれた社会では、閉じた系メディアが利用される

開いた系メディアとは、要するに「パッケージに閉じた」メディアと真逆なものだと理解すればいい。たとえば「憲法」「六法全書」のように紙に書かれて完成された文章が「閉じた」メディアであり、相対的に、明文化されてはいないが「村の掟」などと称して伝承されていく約束事や決まりなどが「開いた系」というわけだ。村が閉じられた社会である限り、これらの開いた系メディアはかなり強力で、有効に作用する。が、村に高速道路や鉄道が通って開かれていくと、あっけなくその効力を失ってしまう。開かれた社会では、閉じた系メディアが利用されるからである。なぜそうなるかまで言及すると、それだけで単著が書けてしまいそうなので、それは省く。マクルーハンあたりを読みあさればいいと思う。

・・・と思ったけど、ちょっとだけ書いてみる。


開かれた社会で「閉じられたメディア」が利用されるのはなぜか

開かれた社会で「閉じられたメディア」が利用されるのは、そうしなければ効率が悪いからである。
せっかく鉄道や自動車が発達しても、それを使って訪れた先で「伝承で」情報を伝えていては効率が悪すぎる。閉じた部族社会では、長年同じ土地に住み、同じ言葉を話し、同じ災害にあい、同じ外敵と対峙し、同じ悩みを持ち、常に情報共有されているので、お互い口頭でコミュニケーションを取ることですぐに十分に通じ合う。俗にいう「目と目で通じ合う」「アイコンタクト」というやつである。

が、そうでない「外の社会」からの人間とは、言葉も違うし境遇も、育ってきた環境も違う。そういう人間と効率的にコミュニケーションを取るためには、まず言葉を「標準語」「英語」等で共通化したうえで、紙メディアやラジオ、テレビ、レコード(CD)のように「パッケージに閉じた」メディアで行うほかない。もちろん、共通化された言葉では、その村で伝承され培われてきた情報が欠落してしまうし、違う文化圏同士の会話では細かいニュアンスが伝わらず、情報の行き違いが発生する可能性が高いが、それを補ってあまりあるほど(村社会=閉じた社会に比べて)大量の情報が行き交うことによって、ある種、強引に問題は解決されていくこととなる。

と、ここまでが20世紀の話である。


さて、21世紀は開かれていく社会か、閉じられていく社会か

グーデンベルクから20世紀までは、社会が開かれていく季節だったといって差し支えないだろう。少なくとも1995年、Windows95が発売される以前までは。

しかし21世紀となり、インターネット等で全世界の情報がタイムラグなく共有される季節になるとしたら、どうだろうか。それは「開かれていく社会」といえるだろうか。むしろ、「地球村」と揶揄されるべき新たなる「大きな村」に閉じられていく社会になる、といえるのではないか。

もはや地球上には未開の地はほとんどなくなった一方で、パソコン・携帯電話とインターネットの普及、そしてその定額化によって、物理的に離れた土地でも、密なコミュニケーションが取れるようになった。具体的に言えば、ニューヨークの会社の税務処理をバンガロールに任せられるようになったとか、そういった類だ。


21世紀社会は、再び「大きな村」へと閉じられていく季節なのかもしれない

ただし、前述したみちあき氏の記事のように「物語が終わっていく」ことを刹那的に肯定する、といった考え方には、私は同意できない。ついでにいえば、日本人に宗教がないというのもウソであると思う。

「物語」というカタチで、時間や空間を切り取ってパッケージにして売ってしまう考え方そのものが、「開かれた社会」の考え方の名残なのだと思う。閉じた社会では、物語に始まりも終わりもない。なぜなら、そこで伝達される情報は「開かれた系」メデイアによって媒介され、人から人へと伝承されていくからだ。あと、日本人にも宗教はある。それがキリスト教の聖書のようにパッケージ化されていない、つまり宗教に関しては未だに「伝承=開いた系メディア」で情報共有され伝達されているため、目に見えずに気がつきにくいだけだろう。

ついでにいえば「著作権」という考え方も、21世紀の大きな争点となるだろう、というか既になっているが。2ちゃんねるとかYoutubeとかで。大量生産社会では、閉じられたコピーメディアで商売するために「著作権」なる概念が必要だったが、閉じられていく社会では、メディアは閉じられないために「誰のもの」だったのか、というのは特定できない。特定できないという言葉が適当でないなら、重要ではない、といいかえておこうか。民族音楽の作曲者のほとんど特定できない、特定できたところで大して重要でないのと同じ理由で。


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